体調不良は人生の転換を示唆する強制スイッチ?

早期退職/FIRE
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体調不良は強制的な人生の転機

私は大学を卒業してから20年以上勤めてきた会社を早期退職して、もう会社員として働くことを辞めた。働いてきた間自分なりに努力はしてきたつもりだが、あまり評価もされなかったので努力が足りなかったのかもしれない。そんな会社員人生の中で、働くことを前向きに感じられたことが一度もない。

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私自身メンタルの状態が体に出やすい体質で、特にストレスがかかると腸やアレルギーに関連する体調のトラブルが多いし、悪化してくると眠ることができなくなることもある。眠れないというのは本当にきつい。眠れても短時間で眠りは浅く、ほとんど眠れないまま朝を迎える。そんな状態で出社することが続けば、当然脳の機能は低下し、仕事にも支障は出るし、うつなどの精神的な病気になってしまう場合もある。

肉体的にも精神的にも余裕がなくなれば、心も体も電池切れのような状態になってしまい、何かを楽しむこともできなくなるし、見える景色からは色が失われてモノクロに映り、もう日々義務的に過ごすだけで精一杯になる。さらに無理をすれば、今度は回復に年単位の時間が必要になってしまう。もう少し無理をしていたら、生きることへの自信を失っていたことだろう。

努力しても上手くいかないのは進む道を間違えているから

私自身残業量はさほど多くなかった。健康な男性なら週40時間働くことは体力的には難しくはないだろう。ではなぜこういった体調不良はなぜ起こるのか?私自身体調を崩す理由は自分の中にいるもう一人の自分からの警告、アラートだと思っている。

会社員という立場上、上司の指示、会社の方針、子会社の場合は親会社からの圧力、お客様からのクレームなどで、その内容が間違っていると思っても、理不尽だと感じていても、業務としてやらざるを得ないことが多い。

組織として誰かがやらなければいけないことは、例え意に添わなくても、損な役割になっても努力して処理するが、間違っていると思うことをやることは、面白いわけがない。仕事に前向きに取り組めないし、ストレスを感じるだけだ。ましてや不正を隠してまで利益を追求することは絶対に受け入れられない。

会社員とはそういうものだと言われればそうかもしれないが、私は特に間違っていると思うことに従うことに強い抵抗を感じる性質で、感情も顔にも出やすいので、上司から見れば使い勝手のいい人材ではないだろう。

こういった状態で仕事をすると、精神的には強いブレーキをかけつつ、肉体にはアクセルをかけているような状態なので、仕事をしていても達成感は一切なく、もはや苦行でしかない。そんな仕事をしている自分も嫌いになっていき、ただただ疲弊していくだけだ。

もう1人の自分が体調不良を作り出す

私は「神様」というものは、天上で見下ろしている存在ではなく、自分の中にいるもう1人の自分だと思っている。正しいことの基準やモラル、人としてどう行動すべきか、どうあるべきかという価値観を持った、もう1人の自分が高い視点で私の目を通して私の行動をみている。

そのもう1人の自分が私自身の行動を見て、正しい行動をとれば、喜び自己肯定感が高まる。違っていると警告し罪悪感を感じる。その罪悪感を無視し続けると、もう1人の私が肉体のどこかに不調を引き起こして、強制的なブレーキをかけようとする。精神的な不調も同様に引き起こされていく。

不調が軽いものであれば、朝目覚ましが鳴っていても、会社に向かう必要があるのに、目覚めが悪く、布団から出られない程度の症状から、重症になれば風邪のような体調不良を引き起こしたり、不眠を引き起こしたり、とにかく会社に行かない理由を体が作り出して、最悪引きこもってしまう。

これはもう1人の自分が、現在の働き方は間違っていて、体調不良という手段を使ってまで強制的なブレーキをかけるのあれば、職場を変えるか、仕事を変えるか、仕事そのものをやめるしかない。

「誰かに命令されてやりたくないことをやるのはもう嫌だ」

「私はサラリーマンには向いていない」

心の声と肉体への警告を受け止め、私は仕事を辞めた。

自発的でなければリタイヤしても鬱になる

仕事をやめると、基本的に誰も自分に命令する人はいなくなる。1日中寝ていても遊んでいても誰も止めないし、何もしなくても誰も何も言わない。だが、毎日遊んでいることも、何もせずに毎日を過ごしていることも、私の中のもう1人の私がみているのだ。

体調が悪いならゆっくり休むことは必要だし、しばらく仕事を辞めた解放感に浸るのもいいだろう。しばらくはもう1人の私もそれでいいと言ってくれるが、あるときふと「そのままでいいのか?」ともう一人の自分が問いかけてくる。いわゆる虚無感だ。

仕事をしていないと誰も命令する人はいない分、何をするかは自分で決めなくてはいけない。日頃から上司に命令されないと動かない、受け身になれた会社員は、リタイヤを迎えると大きな価値観の転換を求められる。

早期リタイヤした人の中にはこの価値観の転換ができずに悩み、また会社員に戻る人もいる。毎日の行動を誰かに決めてもらう方が楽だからだ。中には辞めた後に精神的不調になる方もいるだろう。私は2度の休職を経験しているが、1度目の休職はまさに精神的不調に陥った。

休職をして仕事をしなくてよくなったが、仕事に対する挫折感が残り、体調は一向に完治せず、行動には制限がかかり引きこもった。休職の期限いっぱいまで悩み試行錯誤したが、自分が何をすれば生きていけるのかわからず復職という道を選択した。

1度目の休職で得た挫折と教訓

1度目の休職をして、2度目の休職をするまでに何が失敗だったのかを考えたが、やることを決めるときにもう1人の私の声を無視したからだと思う。1度目の休職時に私は自分に「この先何を仕事にすれば生きていけるか?」と問いかけていた。体調を崩して働くことに挫折していた自分にこんな問いかけをしてもまともな答えは返ってこない。ここで問いかけるべきは仕事ではなく、「残りの人生で何をしたいか?」だったのだ。

「この先何を仕事にすれば生きていけるか?」と自分に問う。仕事をしてお金を稼ぐというのは、自分の能力や成果を認めてもらって始めて対価が得られるため、ある意味他人からの承認によって成り立つ。会社での評価も、SNSや人間関係を見ていてもわかるが、他者から承認されようと頑張るのは、必ずしも自分のやりたいこととは一致しない。他者からの承認を求めて行動すると、他人の顔色を窺い、失敗を恐れ、何かに依存して、人は道を誤る。

「残りの人生で何をしたいか?」と自分に問う。何をするかは自分で決め、その決定に従って何かをすること、これは自己実現欲求を満たすことにつながる。自己実現欲求を満たそうと努力すると人は自己肯定感が高まり、前向きに行動できるようになり、いつ止めてもいいので失敗を恐れなくなる。

2度目の休職で退路を断つ

私は2度目の休職を決めたとき、選択肢は2つあった。1つは1度目の休職のように休職制度をフルに使って、いざとなったら会社に戻るという保険をかけておく方法。もう1つはそのまま退職をすることだ。一般的に見れば保険をかけておく方が賢い選択だろう。

私は1度目の休職で失敗した経験を繰り返したくなかったので、自分の退路を断つことを決めて、休職の手続きと同時に退職の意向を上司に伝えた。昨今は正社員の確保が難しいらしく、一応形式的に引き止めもあったが、「もう会社員には戻らない」という、もう1人の自分への決意表明は揺らがなかった。

仕事をしなくなって少しずつ変わる思考

私は仕事をしなくなってからも、しばらくは会社で働く夢を見た。引継ぎはしっかりしたつもりだが、仕事がうまく回っているのか、多少は心残りもあったのだろう。元の職場で同僚と話したり仕事をしていたり、夢を見ることは続いたが、時間とともにその頻度が下がっていった。

仕事をしなくなり会社のことを考えなくなると、精神的な負担は大幅に減ったことで、精神面では悪い癖が少しずつ解消して、思考パターンも変わっていくのを感じた。仕事をしなくなって気づいたことがいくつかあり、以下のようなものだ。

謝罪の言葉と他者からの評価からの解放

仕事をしていると、メールを書くとき、チャットをするとき、お客様と会話するとき、「申し訳ありませんが…」、「お手数おかけしますが…」と接頭語のようにつけて会話をする。もう1人の自分は私悪くないのになぜ謝っているの?と思ってるので、無意識に自尊心を傷つけていると思う。

会社で謝罪の言葉を使うのは、自分1人ではできない仕事を誰かにお願いしたり、仕事をスムーズに進めるためのマナーのようなものだ。仕事をお願いするときには、好意的に受けてもらった方がちょっと無理なお願いも聞いてもらえるし、逆に仕事を受ける立場でもお世話になったからお返ししようと思って忙しくても受ける。これらの行為は関係者との人間関係を重視しているからに他ならない。そうして仕事がうまく進めば評価も上がる。

だがその仕事がなければ、誰かに何かをお願いすることすらほとんどないし、嫌なことを頼まれたら断ることができる。自分の行動の選択権は常に自分が持ち、誰かのご機嫌や評価を伺う必要性がなくなる。

そうすると何かをしてもらった時には「ありがとう」という感謝の言葉が自然と出てくるようになる。感謝の言葉は自分の中にも自己肯定感を残す言葉だ。嘘であっても本当であっても自分が見聞きしている言葉は、もう1人の自分を通して自分に影響を与える。

仕事でも友人関係でも、恋人やパートナーとの関係であっても、自己肯定感が否定される環境からは離れるべきだ。自分を犠牲にしてはいけない。自分を必要とし、厳しくても大切に扱ってくれる人たちに囲まれ、成長できる環境に身を置くべきだと思う。

心身の声に耳を傾けることができる

仕事をしているとき夜更かしをしていた理由が何なのかは、何となくわかっていた。通勤と仕事というやりたくないことに9時間程度を使い、残った時間から生活に必要な時間を除くと、自由に使える時間は数時間だろう。残業があればほとんど残らない。

体は眠いが、すぐに眠ってしまうと日々が義務感のあるルーチンワークだけで終わってしまい、心が満たされずに眠るのが惜しくて夜更かしするのだ。睡眠時間を削って朝を迎えると、眠り足りない頭を目覚ましの音がガンガンと殴打し、眠りたい気持ちと起きなくてはいけない義務感との葛藤の中でうんざりしながら体を起こす。

仕事を辞めると1日に使える自由な時間が増える。朝は日の光と鳥のさえずりの中を甘いまどろみを堪能しながらゆっくりと覚醒し、その日やりたいこと、やるべきことを時間を気にせずにやり切り、残った時間は動画を見たり、ゲームしたり、漫画を読んだりして暇つぶしをする。あとは入浴して、お酒を飲みながらまったりと過ごして眠くなったら眠る。

義務感に追われていると自分の心や体から発する声を無視して無理を重ねるが、自由になれば、食べたい、飲みたい、眠りたいといった、肉体の要求を素直に聞くことができるようになり、暴飲暴食や不眠からも解放される。

受動的な趣味は飽き、能動的な趣味を求める

仕事がなくなれば、趣味である映画などの動画鑑賞や、ゲームを一日中やって過ごせばいいと思うかもしれないが、実際こうしたコンテンツの消費を繰り返してみても2ヶ月もすれば飽きる。こうした趣味はすべて受動的の趣味で、自分から何も行動していないからだと思う。

体を動かすことや鍛えること、何かを作ること、文章を書くこと、誰かと議論をするなど、自分の思考や行動を外に出す行動、農業や釣りなどの自然との対話は、行動の結果が返ってくるので、受動的な趣味に比べると飽きづらい。私もスポーツというか体を動かす趣味を体調が回復したら、庭いじりや自転車などの趣味を増やしたいと思っている。

創造性は誰にでも備わっている

自分を理想通りの体に鍛え上げること、文章を書いたり、物を作ったり、自分のアイデアを形にしようとする行為、もっと上手になりたいという向上心、こうした創造性はどんな人間にも備わっているもので、健全な精神状態になれば自然と湧き上がってくるもので、子供の頃にはやっていたはずだ。

私は文章を書いて吐き出すのが好きなようで、これまでもいくつかブログを作ったりしてきたが、結局早期リタイヤしてからのことを何か発信をしたくなって、このブログを作った。構想は1ヶ月くらい考えていたが、何度か作った経験もあるのでさほど時間はかからなかった。5~6時間で作れたと思う。

こういう情報発信も根本的には承認欲求を求めると挫折するので注意が必要だ。リタイヤ後の人生を考える上で、自己実現欲求が満たされる趣味を持つべきだと思う。自分の心や身体の発するシグナルを受け止めて、自分の人生をより良い方向へスイッチしよう。

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